科学技術の進歩にともなって、英語の習得環境も変化する。衛星放送が普及した時代において、日本にいながらにして日本人英語学習者は、かつては触れることの出来なかった英米の英語ニュースや英語ドラマ・英語の映画等、大量の映像をともなった英語音声に個人でアプローチすることが出来るようになった。そのように個人で英語を習得する環境が飛躍的に好条件化しつつある時代において、英語の授業、とりわけ、日本の大学における英語の授業の果たすことが出来る役割を考察する。そして、日本の大学生において instrumental な動機以上に特徴的な integral な英語学習動機、教材の不易流行等をキーワードに、浮かび上がってくる英語教師の entertainer 性を指摘しつつ、アメリカの小説家 F.S.フィッツジェラルドの2つの小説『グレート・ギャツビー』『夜はやさし』を題材としたエンターテイナーの限界と危険性の分析を通して、BS時代の日本の大学における英語教師の置かれた苦境を吟味する。