大正10年(1922)9月上旬に、吉野秀雄は長年の念願が叶い、はつ子との交際の許可を両家から得ることができたものの、実際にはつ子と直接会うことができたのは、それから約2か月後の11月13日のことであったことが、当時の日記から判明した。吉野秀雄は東京から、はつ子は母親と共に富岡から、高崎新町の旅館をわざわざ借りて三人は落ち合っているのだが、自由恋愛が認められていない時代にあって、男女が会うことがどれだけ大変なことであったかをこの日記は物語っている。高崎に着くまでに、はつ子に会える喜びを詠んだ吉野秀雄の未発表の短歌10首もこの日記の中で新たに発見され、ここに掲載した。