吉野秀雄は、大正12年4月慶應義塾大学経済学部二年に進学する。この年は9月に関東大震災が起こり、吉野藤商店東京支店も全焼する。当時富岡にいた吉野秀雄は、急ぎ上京して情報収集に奔走する。その際の無理がたたり、翌大正13年3月に肺尖カタルを発症して大学中退を余儀なくさせられる。大学卒業後結婚することを夢見ていた吉野秀雄とはつ子にとって、大正12年は、その来たるべき悪夢の予兆のような一年であった。その一年をはつ子宛吉野秀雄の書簡より概観する。その中では、特に白樺派有島武郎の自殺と吉野秀雄が会津八一と共に文学上の師と仰いでいた良寛に関して初めて言及されていたことが注目される。