歌人である吉野秀雄には、死後19年後に発見された、二十六篇からなる『山國の海鳴』という詩集がある。友人であった俳人上村占魚が詩稿を所有していたのだが、いつどのようないきさつで入手したかについては全く覚えていないという。その後その詩稿は、昭和61年に紅書房より発刊され、草野心平が序文を書いている。吉野秀雄は、二番目の妻登美子氏の夫であった八木重吉の詩集を世に送り出すという功績はあったが、彼自身が詩を書いていたことや吉野秀雄における詩の意味合いは、長い間わかっていなかった。今回神奈川近代文学館吉野秀雄文庫の中に、大正12年に書かれた『詩ノート』『詩稿抜書』や、肺尖カタルを発症したことが書かれている『大正拾三年日誌』(其の一)の中にも詩の作品が次々と見つかった。『天井凝視』の元になったと思われる大正十三年夏秋に詠まれた『歌稿その一』『歌稿その二』や『句稿』も発見されたことから、若き吉野秀雄にとって、短歌・俳句・詩は、共に等価値で重要な文学としての位置づけであったことが明らかになった。