平成30年度跡見学園留学助成費による研究成果の一部。原稿用紙で約309枚相当。『東洋文化研究所紀要』第173冊(東京大学東洋文化研究所)掲載の<前篇>の続きの史料を紹介し、分析と結論を述べる。<前篇>で挙げた第一の論点については、ベルナドット国連調停官のイギリス及びアラブ関係者との親密さがイスラエル暫定政府を代表して交渉する外相シェルトクの譲歩のサインを見誤らせたと分析する。第二の論点であるイスラエル暫定政府によるベルナドット和平提案拒否の背景については、1948年4~6月に蓄積されたユダヤ人側の流血の記憶と、アラブに対して硬化するユダヤ人世論が果たした決定的な役割を見逃すことはできないと分析する。第三の論点であるアルタレナ号事件の政治的意味については、閣議が行き着いた「恩赦」という微温的な解決策の中に、その後の歴代のイスラエル政府の、アラブに対して過激な言動をとる極右への対処を特徴づける「身内への許容性」の原型を見る、と論じる。最後に、<前篇>と<後篇>にわたった論考全体(約492枚相当)を以下の様に結論づける。━━ベルナドット和平提案の超党派的拒否は主権をめぐるものであったが、その結論はシオニズムの前提や国連分割決議からの逸脱といった、単に理論上・文面上の抽象的な理由に基づくものではなかった。1948年6月における新たな展開と既成事実(すなわち大量の流血と新たな「国民的記憶」の蓄積、背後で関わるイギリスへの増大する不信、アラブに対して硬化する世論)が暫定政府のとり得る結論を限定した具体的「文脈」であった。他方、ベルナドット提案審議の過程で顕在化した、ベングリオン首相(兼国防相)ら行動派の国防重視型の論理と、シェルトク外相ら穏健派の外交重視型の論理の衝突は<国防と外交の対立>にとどまらない含意を帯びていた。閣議におけるその衝突は、「世論」と「外交」の緊張、更にはエルサレムが包囲されていた激戦の日々とその後の停戦を通じて生じていたエルサレムとテルアヴィヴの利害対立と感情的疎隔をも、重層的に反映していたのである。(査読:有)