原稿用紙で約290枚相当。査読有。拙著『イスラエル政治研究序説ーー建国期の閣議議事録 1948年ーー』(人文書院、2020年)で扱った続きの時期である1948年7月7日~11日のヘブライ語の閣議議事録の分析であり、主要論点、特にアラブ問題に関する考察を加えるものである。第一の論点として、第一次停戦終了直後に起こって大量のアラブ難民とアラブの死者を出したリッダ・ラムレ制圧と、イスラエル側の「将校の反乱」の関わりを分析する。ベングリオンの病欠、リッダの陥落とアラブの流出、ベングリオンと対立した国防軍幹部のガリリの更迭という三つの出来事がほぼ同時進行していた事は偶然であったか。第二の論点として、停戦延長をアラブ側が拒否して戦争再開に至ったという経緯がもたらした政治的影響について分析する。第三の論点として、イスラエル国家が英国をはじめとする関係各国及び国連の介入やアラブを排除すべく、これらの要素と格闘しながら主権を確立していった過程を分析する。幾つかの結論を提示しているが、主要な結論の一つは次の様なものである。--リッダでアラブが追放されようとしていた頃、テルアヴィヴでは裁判官任命の様な実務的領域に於ても、国旗・国章の様な象徴的領域に於ても、アラブ的要素の抹消につながる意見や方向性がベングリオンを中心に複数の閣僚から打ち出され、アラブ人ないしアラブ的要素の露骨な排除を懸念する幾つかの異論は見られたものの、結果的には国家のユダヤ性を色濃く確保する政策決定に帰結していった。リッダの出来事とテルアヴィヴにおける審議は、通常の政治学的視点から見れば別々に生起した事象の様に見える。しかし軍事と政治の総体を貫く「精神の共通性」から見ると、1948年7月のテルアヴィヴとリッダにおけるアラブ排除のこの同時性は、決して偶然とは言えないであろう。