無住は終始一貫して仏教という目的のため笑いを用いており、笑いを目的とした仏教説話ではなく、笑いを手段とした仏教説話なのである。そこに「乖離」は認められず、むしろ『沙石集』の特性なのである。そして、そこには「心」が確かにあった。「心」の在り方や作用により、笑いは笑話にも仏教説話にも変換される紙一重のものである。それ故に、無住は笑いの中で盛んに「心」を強調している。さらに、『沙石集』は書承の世界においてそれまでは誰も為し得なかった仏教説話と笑いとを結びつけたという点だけでも注目に値するが、読み手の「心」によって仏教説話と世俗説話とを往還させたという面でも大きな意義を有する。無住の説く「心」を正しく理解できた者だけが無住の意図に沿うという意味で『沙石集』を正しく読み解ける。